無差別殺傷事件などで犯人の素顔や生い立ちを報道する意味
先日起きた神奈川県川崎市・登戸での大量殺傷事件。
ふだんから殺人事件などが起きると、犯人の生い立ちなどを調べ報道されるといったことがよくあります。とくにこういった無差別殺傷事件は、事件後しばらく犯人についてのニュースが増える。
そこでいつも引っかかるのが、コメンテーターなどの発言や報道姿勢について。
かならず
「犯人の生い立ちを見ると大変だったのかもしれない。でも同じような環境で育った人で頑張っている人もいる。生い立ちを理由に事件を起こしてはいけない。」
この結論ありきの報道なら「生い立ちは?素顔は?」とかいらないんじゃないかと思います。
「社会的に孤立した人が犯罪に走るのを防ぐにはどうすればいいか?」というテーマなら生い立ちなどを報道して、地域でできることは何なのかといった議論になり、事件の抑制に意味のあるものになります。
でも、実際そういう議論にはならず、犯人を糾弾するためだけに個人情報が洗いざらい公表されるだけです。
その結果、犯人の家族や親族までネットで調べ上げられて迷惑がかかる。それなら犯人のことを詮索しないほうがいいのではないかと思います。
だから
そんなことなら最初から「児童を守るにはどうすれば?」といった議論だけ取り上げればいいじゃんて思うだけです。
本来なら「防犯対策」「犯罪に走る前にサポート」という2つ同時に考えなければいけないところです。が、世論的に「犯罪者に同情の余地なし。」
しかし、世論は「犯罪者に同情の余地なし」と切り捨てて終わってしまう。
それじゃダメなんだと早く気が付かなければ、同様の事件が減ることはないかと思います。むしろ増えていくことも考えられます。